久しぶりの投稿になります。今回は現在スイスに在住のS原氏の記録についての投稿となります。
各種耐久レースは100回近く参加して棄権は2回だけ。1回はスイスのスキー登山レース。これは二人でチームを組み登り降りするレースだったが、僕はそのレベルには達しておらず、チーム・メートには迷惑をかけてしまった。彼はその年40,000mの標高差の登りをトレーニング済みのつわものだったが、僕は1000メートルに満たない標高差の登りのトレーニングしかしておらず、お話にならなかった。スキーをつけた登り降りには自信あり、と慢心していた。
マッターホルンでの加藤保夫は日本人の客をガイドしていた。僕は日本で高校時代に山岳部にいたという若者を連れて8mカメラを回しながらの登頂だったが、この相棒はすぐにばててしまい僕は一人で登っていた。小屋を大分前に出ていた加藤保夫のパーティーに追いつき、一緒に頂上を踏んだ。僕はザイルにつながらなかったが、彼らの後ろについた。保夫に引っ張られ、客はひいひい言いながら登っていた。頂上には我々が一番でついた。保夫が何でこんなに急いでいたのかは後で分かった。頂上近くにフィックス・ザイルがあるのだが、「そこに一番乗りしないと、えんえんとまたされちゃうんですよ。下りは僕が確保してその脇をおりれるので待たなくて済むんです」と笑っていた。登りで力を使い果たした客は、下りの簡単なところでずっこけた。保夫が止め、事故にはならなかった。後日、この連中が帰る前にジュネーブで会食した時、ずっこけたその人は「菅原さんが後ろからついて来なかったら僕は途中で登るのを止めていましたよ」と述懐していた。この保夫とはエヴェレストで登頂後行方不明になった年の夏Grindelwaldでバッタリ会い、ちょっと話をした。それが根っからあかるい好漢加藤保夫との最後の遭遇になった。ネパールの話などもまとめてみたい。